――2019年夏、富山県にて
昼時を少し過ぎた14時過ぎ頃のことだったと思う。
「ともさん、わんこそばっていける?」
俺は食わんけど、と付け加えながらflat-はそう提案した。
わんこそばと言えば岩手県の名物料理である。蕎麦一杯は一口サイズだが、それが次々とお椀によそられていき、ギブアップしてお椀に蓋をするまで終わることのない戦いを続ける。
そういうわけでギブアップ=敗北という価値観の人には悲報だが、絶対に勝利することのない戦いである。
そんなわんこそばがこの富山県でも食べられるらしい。
「いいじゃん、行こう行こう」
誘われた“ヴィルヘルム王”ことともも、結構乗り気だった。
富山旅行も最終日。立山連峰には雲が掛かっていたものの全体的には天候に恵まれ、楽しく観光も出来た。あとはお腹を満たして帰るだけ。
だがこのわずが1時間後、人間の醜さと身勝手さによって泥沼の戦いがもたらされることになる。
これはその時起こった惨劇の記録である。
目次
戦いの始まり
ひとまず状況を説明しておこうと思う。
遡ること一年ほど前。
筆者とともさん(@tomoDMP8 )は北陸新幹線を使って富山県に遊びに来ており、現地でflat-くんと合流して3人で観光をしたりクルージングをしたり寿司を食べたりと、富山県を満喫していた。
筆者の今回の旅行の主目的は、富山県が保持する大型帆船「海王丸」に会うことである。
げに麗しき海の貴婦人、海王丸
余談にはなるが、現状日本に帆船は2隻しかない。そのうち1隻は横浜にある「日本丸」なのだが、みなとみらいで事実上の監禁幽閉状態にされている。
ちなみに誘致にあたっての条件に「いつでも出港出来る状態で保持する」というものがあったので、はっきり言ってしまえば横浜市はこの約束を反故にしていることになる(市曰く「いや、確かに一見すると出口に橋が掛かってるから出港出来ないように見えるけど、あの橋は着脱可能だから外せばいつでも出港出来るよ! まあ外すのに数十億掛かるけどね! あ、あとみなとみらいの人の出入りが多いから橋増やすね!」)
……と、横浜市への悪口は尽きることはないのでこれくらいにしておくが、それはそうとしてやはり間近で見る“貴婦人”海王丸は美しく、優雅であった。この時は帆が上がっていたが。次は是非とも帆を降ろしている時にお目に掛かりたいものだ。
さて、海王丸パークへの車を出してくれたり寿司を奢ってくれたりと至れり尽くせりだったflat-くんだが、なんと最終日の昼飯も奢ってくれるということだったのでありがたく好意に甘えることにした。
しかし奢りには但し書きがついていた。
それが「わんこそばなら奢る」という条件である。
この条件を飲んだともさんが、「じゃあflat-さんもわんこそば食べるよね?」と言ったことにより、flat-くんもわんこそばを注文することになった(ちなみに筆者は体格が1/2flat-くんくらいなので、『まあコイツはそんな食えんやろ』と思ってくれたようで、見逃された)。
そして成人男性二人がわんこそばを食べるということは……つまりはそういうことである。
こうして互いのプライドのみが懸かった、非常にみっともない惨劇が幕を開けることになった。
大逃げの目論見とその失敗
この対決は先攻を取ってアグロ戦術で大逃げを図るflat-に対し、ともが安定したペースで追い掛けるという展開になった。
実はこのわんこそばは岩手名物とは微妙に差があった。1杯の量は多めで、蕎麦も勝手に追加されるのではなく注文形式だった。わかりやすく説明するなら、ラーメン屋の替え玉システムに近かった。
flat-側の作戦の軸となっているのは「逆転出来ないと思わせるラインまで皿を重ねることで、相手をリタイアに追い込む」という心理的作用である。実際に早々に18皿ほど食べ終えて、一旦箸を置いた。
対してともはこの時はまだ半分程度だったが、ペースは安定していた。順調に食べ進めて、flat-の背中にひたひたと迫っていく。
残り2皿に迫ったところで、ともは2皿の追加注文を掛けた。これを食べきれば、flat-に追い付くことが出来る。
こうなると、逃げ切りを軸としていたflat-の作戦は瓦解することになる。だから箸を置いていたflat-も、追加注文を掛けた。
だがここでの追加注文は2皿。
これは悪手だった。頼むなら4皿くらい行くべきだったのだ。まだ余力を残しているように見えるともに対し、わざわざ自身の限界を露呈してしまったのだ。
勝ちを狙った2皿ではなく、あくまで負けを回避するための2皿。
つまり心理的作戦で挑んだflat-が一転して心理的に追い込まれていたのである。
結局flat-は20皿を食べたものの、とももこれに追い付いてそこでの睨み合いとなった。どうやら両者ともにここが限界だったらしい。
或いはここで両者引き分けで手を打てるかもしれない――或いは、そんな未来もあった。
だがここで予想外の事態が発生した。発生してしまった。
店員さん「お待たせしました、追加の3皿です」
一同「!?????」
なんと注文していない蕎麦がテーブルに届けられたのである。店員さんは何事もなかったかのように3皿をテーブルに置くと、笑顔でその場を去って行く。
しかもよりによって3皿。そう、奇数なのだ。
こうして講話ムードは一転した。偽りの平和は破壊されてしまったのだ。
flat-はこの3皿のうち2皿を抱え込むと、決死の表情でこれを食べ始める。
こうなるとともが勝つためには、追加注文するしかない。だから意を決して、注文ボタンを押す。
とも「すいません、1皿追加で……」
店員さん「1皿で宜しいですか?」
え? 店員さんなんでいま煽ったの???
とも「……2皿で」
こうしてともが2皿を追加してしまったことで、戦いは続く。
人間は醜い
ともの手元に、追加の蕎麦が届いた。これを食べきれば逆転である。
「ともさんがその2皿を食べきるとは思えない」
flat-は状況をそう分析していた。もっとも分析というよりは願望に限りなく近かったのだが。
実際ともは完全に限界に達しており、一口がまるで進まない。蕎麦を一本ずつ啜る人が他にいるだろうか?
だが亀の歩みもいずれは兎を追い抜くように、時間を掛けて追加の2皿を見事食べきってみせたのだ。
そして彼は勝利を確信し、宣言する。
これは俗にいう「やったか!?」という奴である。
結果的にこの勝利宣言がflat-を刺激したのか、flat-は負けじと2皿を追加。
そしてここまできて負けたくないともの方も、同じく2皿を追加し応戦する。
「いや、忘れるなダン、地球は狙われているんだ。今の我々の力では守りきれないような強大な侵略者がきっと現れる。その時のために···」
「超兵器が必要なんですね」
「決まっているじゃないか!」
「侵略者は、超兵器に対抗してもっと強烈な破壊兵器を作りますよ!」
「我々は、それよりも強力な兵器をまた作ればいいじゃないか!」
「·········それは、血を吐きながら続ける···、悲しいマラソンですよ」(ウルトラセブン 第26話『超兵器R1号』より)
同時に届いた4皿を見比べて、1番量が少ない皿を必死に探すとも。
対して勢いよく啜ったものの、そこで固まるflat-。もはや噛むのも飲むのも出来ないらしい。
嗚呼、なんと醜い戦いなのだろう。筆者は蕎麦湯を啜りながら、人類が愚かで醜い歴史をまた一つ積みかねている様子を、感慨深く眺めていた。
そもそもflat-は、目の前のこの2皿を平らげてもまだ勝てない。食べ損である。
だからこそ、なのだろうか。flat-は意地で2皿を食べきったあとに、最後の呼び出しボタンを押す。
flat-「すいません、蕎麦……」
店員「…………」
flat-「……湯ください」
店員さんは爆笑していた。
戦いはいつの世も変わることはない
恐らく店員さんたちには、この醜悪な戦いが完全に筒抜けになっていたのだと思う。何回も呼び出してすみませんでした。
ちなみに18でほぼ限界を迎えていた両者だが、最終的にはそれぞれ24、25皿を食べる羽目になった。flat-が早々に20を平らげていれば、追加を2皿でなく4皿にしていたら、或いはともが早々に「撤退」を選択していれば、この戦いはもっと早く終わっていたのかもしれない。
だがそうはならなかった。両者は共に望まぬ戦いを、限界から7皿近くも続けてしまったのである。
戦いが長引いてしまったのは、理性的なものでもなんでもなく、ただただ“プライド”の一点のみである。
一応、ともは戦いには勝ったのだが、果たしてこれを勝ったと言えるのだろうか。
人の世は、争いが絶えない。そしてその争いの原因となるのは、得てしていつもこんなものである。
戦いは、いつの世も変わることはない。
これを読んでる聡明な読者諸氏は、この戦いから何を感じ取り、どうか人生を豊かに送って欲しい。